vol.6 お茶の歴史 日本での広がり
お茶の歴史 日本での広がり
わたしたちの暮らしにすっかりとけこんでいるお茶が、いつごろから飲まれるようになったのか…
前回は発祥の地である中国での歴史と、日本へ伝来した当初のお話でした。
今回はお茶が伝わってから、どのように飲まれていたのかをご紹介します。
中国の飲み方にならう
前回ご紹介したように、中国から持ち帰られたお茶は「餅茶」でした。
生の茶葉を蒸してやわらかくしてから、丸く餅状に搗き固めた円盤状のものです。そのつど必要な量を削り取って火で焙り、細かくくだいてから煎じて飲んでいました。留学僧・永忠が嵯峨天皇へ献じたお茶も、このような形だったと推測されます。
中国が宋の時代になると平清盛が貿易に力を入れ、交流が活発になります。仁安3(1168)年と文治3(1187)年の二度、宋に渡り、帰国して臨済宗を開いた栄西禅師は、二度目の留学時に新しい喫茶法を持ち帰りました。この時代になると、生の茶葉を蒸してから炙って乾かし、石臼で粉にひいて保存。粉末にお湯を注ぎ、かき混ぜて飲んでいました。栄西は、その方法を日本へと持ち帰って広めたのです。
つまり現在の抹茶のかたちは、鎌倉時代に始まったということですね。
室町時代には茶園を奨励
当時は武家社会で、お茶も幕府の要人や貴族、僧侶など、身分の高い人しか飲めませんでしたが、室町時代になると将軍・足利義満が製茶を奨励し、幕府のお墨付きで大内義弘が宇治の中宇治エリアに7ヵ所の茶園を拓きます。「宇文字園」「川下園」「祝園」「森園」「琵琶園」「奥の山園」「朝日園」の7つは「宇治七茗園」(「茗」という字は茶畑を表します)と呼んで讃えられ、宇治は素晴らしい茶の産地として名をとどろかせるようになったのです。現在はほとんどなくなってしまいましたが、宇治善法(県神社の南方)の「奥の山園」だけは現存。ここにある茶の木は近年に品種改良されていない在来種で、宇治市名木百選の一つに数えられています。また、朝日山に位置する興聖寺は朝日園があった場所ではないかと推測され、復興に向けて調査が進んでいるそうです。
余談ですが、精華町に「祝園」という地名があります。ここはもしや?と思ったのですが、残念ながら違いました。4世紀頃の豪族の戦で一帯が死屍累々となり、「ほふりの園、ほうむる園」から「ほうその」と呼ばれるようになり、後に「祝園」の字を当てたそうです。
茶葉を喫するようになったのは江戸時代から
室町時代中期には村田珠光の要請を受けて、奈良県の高山城主の次男・宗砌が茶筅を作ります。以後、奈良県の高山町が茶筅の名産地となりました。安土桃山時代にかけては武将がこぞって茶に親しみ、優れた茶道具は政治を左右する重要なアイテムになるのです。
さて、中国は明時代になると、当時の皇帝が茶葉を釜で炒って揉んで作る「散茶」を奨励し、茶葉にお湯を注いで飲む方法が広まりました。中国から渡って黄檗山萬福寺を開いた隠元禅師は散茶を日本にもたらし、江戸時代初期から茶葉そのものにお湯を注ぐ喫茶法が広まっていったのです。
CHABANASHI いかがでしたか?
暮らしを彩る「ちょっとタメになる話」になっていたら幸いです。
さまざま角度からお茶の魅力を伝えていきますので、次のお話もどうぞお楽しみに。
今日はこれまで。
ほな、さいなら。