2024.12.01 お茶について

vol.5 お茶の歴史 中国から日本へ

vol.5 お茶の歴史 中国から日本へ

わたしたちの暮らしにすっかりとけこんでいるお茶ですが、いつごろから飲まれるようになったのでしょうか。時代をさかのぼると、お茶を飲む習慣は遣唐使によって中国から伝えられたようです。

今回はお茶のルーツをたどってみましょう。

神農が毒消しに使ったお茶

お茶の原産地は中国南部です。紀元前2700年の皇帝・神農しんのうは、さまざまな草木を自ら食べて薬か毒かを調べたという伝説があり、医薬と農業の神として祀られています。その神農が毒に当たったとき、茶の葉を噛んで毒消ししたそうです。もちろん神農は伝説の人物なので、この話も茶の薬効を宣伝するために創られたと言えますが、古来よりお茶は薬効のあるものだと知られていました。

紀元前59年、前漢時代に主人と使用人との間に交わされた契約書・僮約どうやくの中に「武陽に行って茶を買う」「茶をる」という内容が書かれており、これがお茶について書かれた最初の文献とされています。どんなお茶だったかはわかりませんが、紀元前から喫茶習慣のあったことがうかがえます。

3世紀、三国時代の書物には、茶の葉を丸めて餅状にしたものを炙って削り、みかんや生姜などの薬味とともに煮出して飲んでいたという記述があるそうです。さらに時代が下って唐の時代に陸羽りくうが記した『茶経ちゃきょう』には、茶の起源から餅茶へいちゃ(茶葉を蒸して丸くき固め、乾燥させたお茶)の製法、たしなみ方まで詳しく書かれています。この時代になると、混ぜ物なしでお茶そのものの味を楽しむようになってきます。

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日本には遣唐使が持ち帰る

平安時代になると、日本と中国の交流が盛んになります。僧侶を中心とした遣唐使が何度も遣わされ、仏教とともに精進料理や喫茶の風習、茶そのものを土産として持ち帰りました。804年の遣唐使船に乗った最澄と空海も、茶の種を持ち帰って植えたと伝えられています。

日本でお茶について最初に書かれた記述は『日本後紀(815年)』です。最澄らと同時期に留学した永忠えいちゅうが、近江の梵釈寺ぼんしゃくじで嵯峨天皇に茶を煎じて奉ったと書かれています。嵯峨天皇はお茶をいたく気に入り、茶の栽培を奨励したそうです。

中国が宋の時代になり、日本は鎌倉時代になります。栄西ようさい禅師が宋から持ち帰った茶の種を筑前(佐賀県)の背振山せふりさんに植えます。そして京都の明恵上人みょうえしょうにんが栄西から茶の種を譲り受けて栂尾高山寺とがのおこうさんじに植え、修行の妨げとなる眠気をはらう飲みものとして茶を珍重しました。ここから栂尾とがのおの茶は日本で最も由緒ある茶「本茶」と呼ばれるようになり、高山寺には『日本最古之茶園』という碑が建っています。

栄西はお茶の効用や製法などについて『喫茶養生記きっさようじょうき(1211,1214年)』を書き上げ、後世まで茶の聖典として浸透します。

室町時代になると、足利幕府の奨励を受けて宇治に茶園が拓かれ、足利義満は宇治茶を庇護しました。安土桃山時代には豊臣秀吉がますます宇治茶を愛護し、さらにおいしいお茶を生み出すために覆下おおいした栽培が編み出されます。

餅~粉末~茶葉へ

初期に中国から伝わったお茶は茶葉を丸く固めた餅茶で、割ったり削ってお湯で煎じて飲んでいました。栄西の時代には茶葉を蒸して炙り、石臼で粉末にしたものを湯にとかして飲む方法で、これが抹茶のルーツとなっているようです。

明時代になると当時の皇帝が茶葉を釜で炒って揉んで作る散茶さんちゃを奨励し、茶葉にお湯を注いで飲む方法が広まります。中国から渡り黄檗山萬福寺おうばくさんまんぷくじを開いた隠元いんげん禅師は、1650年代に散茶を日本にもたらし、茶葉にお湯を注いで飲む簡単な喫茶法が広まっていきました。

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CHABANASHI いかがでしたか?
暮らしを彩る「ちょっとタメになる話」になっていたら幸いです。
さまざまな角度からお茶の魅力を伝えていきますので、次のお話もどうぞお楽しみに。

今日はこれまで。
ほな、さいなら。