2025.01.15

vol.8 さらなる高級茶を目指して

vol.8 さらなる高級茶を目指して

茶葉にお湯を注いで淹れるお茶のうち、最も高級なのは玉露です。
その原料となる茶葉の、特徴的な栽培法はいつから始まったのでしょう?
今回は、玉露の始まりをひもといてみましょう。

霜除けがおいしいお茶を育てることに気付く

お茶の種類のコラムで紹介しましたが、玉露は日光を遮る覆下(おおいした)茶園で被覆栽培されます。この栽培法は400年ほど前、喫茶が盛んになった室町時代の末頃から始まっています。
当時は、4月に芽吹いたばかりの新芽を霜から守るために、ヨシズやワラで茶畑を覆っていました。ところが覆いをかけて育てた茶葉は、あきらかに甘みと旨みが濃くて渋みが少なく良質なことから、しだいに高品質な茶葉を育てるために被覆栽培するようになったのです。
覆下茶園は茶畑に棚を作ってヨシズをかぶせ、さらにワラで覆って日光を遮ります。光の強さによってワラのかぶせ具合を調節すると、より高品質な茶葉が育ちます。この方法を「本簾(ほんず)栽培」と言います。この伝統的な手法はとても手間がかかるのと原料の調達が難しいため、現代は黒い寒冷紗(かんれいしゃ)で覆うのが主流ですが、宇治には今も伝統的な本簾栽培を行っている茶農家が数軒あります。

碾茶(てんちゃ)から玉露へ

覆下茶園で育てられた茶葉は、抹茶の原料である碾茶になりました。
けれども江戸中期に煎茶が発明され、一般人に富裕層が増えると、さらに高級なお茶が求められるようになります。そこで生み出されたのが玉露なのです。
誕生には諸説あり、江戸日本橋の茶商・山本山の6代目 山本嘉兵衛が天保6(1835)年に宇治小倉の製茶場へ赴いたおり、碾茶用の蒸した茶葉を手でかき混ぜると、うまくさばけず露のように丸まってしまいました。けれども丸まった茶葉に湯を注いで飲んでみると素晴らしい甘露を感じたので、碾茶にせず「玉の露」と名付けて売り出したら絶賛されたという説が有力です。

宇治は玉露の発祥地

ほかにも煎茶宗匠の小川可信(かしん)が宇治の上阪清一と一緒に開発した、宇治の松林長兵衛が自らの碾茶加工所を火事で失い、他家の煎茶焙炉で作ったなどという説もありますが、いずれにしろ宇治が玉露の発祥地なのは間違いありません。
宇治市小倉町の近鉄京都線小倉駅に近い場所には、有力説を採って「玉露製茶発祥之碑」が建てられています。
なお、玉露が開発されたのは、商人が力と富を蓄え、反対に大名は苦しくなってきた時代でした。そのため碾茶の需要が減り、生産者と茶商は新たな商品および販路を見出さねばならなかったのです。
そこで碾茶と同じように育てた茶葉を、碾かないで煎茶と同じように仕上げた「玉露」が生み出され、時代背景もあって高級茶として浸透していったということでしょう。

CHABANASHI いかがでしたか?
暮らしを彩る「ちょっとタメになる話」になっていたら幸いです。
さまざま角度からお茶の魅力を伝えていきますので、次のお話もどうぞお楽しみに。

今日はこれまで。
ほな、さいなら。